木更津市の概要
木更津市は、県下において6番目に制定された市です。 東京湾アクアラインのたもとには盤洲干潟が広がり、内陸部には万葉集にも登場する緑豊かな上総丘陵があります。積雪はほとんどなく、コンディションが良い日には富士山を望むことができます。
県下で利根川に次いで長い小櫃川が市の北部を流れており、小櫃川河口付近は東京湾で最大の盤洲干潟が形成されています。金田・牛込海岸ではアサリや海苔の養殖などが行われ、初春は潮干狩り、夏季は海水浴で賑わいます。
平成10年(2000年)より、東京湾アクアライン連絡道を挟んだ2地区では、土地区画整理事業「かずさアクアシティ」が進み、千葉の新しい玄関口として発展を続けています。
木更津のあゆみ
古来より港町として栄えてきた木更津は、歴史と伝統に彩られ、市内に点在する古墳や名刹から昔をしのぶことができます。
古代においては、豪族や庶民で形成された一大集落として栄えていました。日本最古の歴史書「古事記」(7世紀頃)によると、その頃に木更津の名前が起こったといわれています。
徳川家康が中世の戦乱を平定した、慶長19年(1614年)の大阪の陣に木更津の水夫が参加し、多大な貢献をしました。家康は、江戸(東京)に都を移し、その戦の報奨として江戸−木更津間での渡船営業権などの特権を与えられた木更津船という五大力船が、頻繁に江戸を往来しました。これにより、木更津港が上総・安房の海上輸送の玄関口として繁栄していくことになりました。この頃の木更津には、浮世絵師や文人が数多く訪れ、江戸の文化や風俗も盛んに流入し、江戸前の独特の気風が育まれていきました。木更津を舞台にした歌舞伎「与話情浮名横櫛」は、嘉永6年(1853年)8代目市川団十郎が初演し、大当たりとなりました。主人公の与三郎と美しいお富の悲恋を表現したドラマチックで、華やかな色町の情緒にあふれたこの狂言は、当時の木更津の活気を今に伝えています。
明治維新後の明治4年(1871年)11月、廃藩置県施行により旧安房・上総国に木更津県が設置され、1年7ヶ月の間県庁所在地となりました。しかし明治6年(1873年)には木更津県が廃止され、印旛県と合併して千葉県となります。明治12年(1879年)頃には外輪の蒸気船が東京を往復するようになり、ますます商業が栄えました。大正元年(1912年)には鉄道の木更津線(現在の内房線)が開通し、木更津駅ができました。昭和17年(1942年)11月3日に1町3村が合併し、全国で197番目、千葉県で6番目の市となる木更津市が誕生しました。
戦後、君津市が八幡製鉄所(現:新日本製鐵君津製鐵所)を誘致したことにより、木更津市にも八幡や釜石、室蘭などの製鐵所関係者とその家族が移り住むようになりました。
昭和40年(1965年)木更津港−川崎港間を日本カーフェリーがフェリー航路を開設し、昭和50年(1975年)5月には日本一高いところにある歩道橋「中の島大橋」が完成しました。
その後も平成7年(1995年)に館山自動車道(千葉〜木更津間)が開通し、交通アクセスが大変便利になりました。平成9年(1997年)12月18日には東京湾アクアラインが開通し、それに伴いフェリーが廃止となりました。
千葉県の一中核都市として発展を続けてきた木更津市は、昭和51年(1976年)9月10日に市の人口が10万人を越し、千葉県で9番目の10万人都市となり、京浜エリア・京葉エリアの産業、流通の業務拠点と世界へ結ぶ千葉県の新しい玄関口として飛躍的に発展しています。
木更津の名前の由来
「木更津」の名前は古事記の「日本武尊伝説」に由来します。古事記によると、景行天皇の命で東国征伐に向かった日本武尊が、相模の走水(現在の浦賀水道)を船で上総国に渡ろうとした時、海上で暴風に襲われました。その時に一緒にいた日本武尊の妻は「この暴風は海神の怒りに違いない」と悟り、海神の怒りを鎮めるため自らの身を海に投じました。その後、無事に上総国に渡る事のできた日本武尊は、妻のことを想い「君さらず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき」と詠いました。この歌の一節「君さらず」が転じて、「木更津」という地名になったと伝えられています。
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| 木更津の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓ |
千葉県立上総博物館 |
| 住所: |
〒292-0044
千葉県木更津市太田2-16-2 [地図を見る] |
| 電話番号: |
0438-23-0011 |
| 開館時間: |
9:00〜16:30 |
| 休館日: |
月曜日(月曜日が祝日・振替休日のときは開館し、翌日休館)、12月26日〜1月4日 |
| 入館料: |
一般200円、高・大学生100円
小・中学生・65才以上無料 |
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